2014/02/13

ロベルティーナさんの話

語り手:ロベルティーナ・ナスタクアス
写真・聞き取り&翻訳:柴田大輔


●聞き取り者より注釈:
ロベルティーナさんは先住民族自治区マグイの女性で、
紛争の影響でいま一時的に自宅を離れ、近くに暮らす息子さん夫婦の家に来ています。


「私達がここに来たのは124日の金曜日。

グレゴリオさんとロベルティーナさん夫妻(2013年11月)

もうそんなに経つんだね。その週に軍が私達の家に来たんだ。
うちの近くにキャンプをしだしてね。
そしたらゲリラが、向かいの山からそこへ撃ってきて、軍もそれに応戦して。
もう危なくって、そこにいられないからここに来たのよ。夫のグレゴリオと。

アラヤンでは息子さんの家族と同居していた2013年11月)


軍には私達のものには手を付けるなって言ってきたよ。
(注:以前に軍とトラブルがあった。後述。)
もうしばらくここにいようと思うよ。
グレゴリオが、時々家の様子を見に行って鶏、豚や牛に餌をやってます。

***************

グレゴリオさん・ロベルティーナさん夫妻は、
先住民族自治区マグイのアラヤンという地区に住んでいます。
2012122日午前1時頃、夫妻の家のある場所から
徒歩で10分ほどのところにキャンプを張っていたゲリラが、軍の空爆を受けました。
3時間に及ぶ激しいもので、司令官を含む20人以上のゲリラ兵士が殺害されました。

2012年12月2日に空爆のあった場所。アラヤン地区。(撮影:2013年2月)


夫妻はその日たまたま、隣の集落に住む娘さんのところに行っていました。
空爆の激しい音を聞き、日の出後に一度自宅へ戻りましたが、まだ危険があると思い、
娘さんのところで生活することにしました。

避難先で、一緒に避難している同居していたお嫁さんとお孫さんと
河で洗濯するロベルティーナさん(
2014年2月


後、空爆の現場に入った軍は、夫妻の家に居座ります。
約ひと月後、状況を確認し、軍と話しあうため、
マグイの指導者たちで組んだ交渉団を伴い夫妻は自宅に戻ります。

種のするトウモロコシをかまどで燻し、虫を取り除く(2013年11月)

夫妻の家畜、種まき用にとってあった作物の種がなくなっており、
衣類・毛布が外に投げ出されていました。
はっきりとした原因は確認できなかったものの、
軍はその家をゲリラのものと思っていたということを聞きました。
夫妻はこれに対し、軍に賠償を求めています。
しかし、未だに返事はないということです。


新たに買い直した家畜(2013年11月)


2014/02/08

居留区への爆撃(その2)

語り手:ホセ・チンガル(マグイ居留区議会・代表)

写真・聞き取り&翻訳:柴田大輔


戦闘が始まったのは昼の12時前でした。その時私は妻と自宅の敷地にある魚を養殖している池を見に行っていました。谷を挟んだ向かいの山からゲリラがこちら側に向かって4発爆弾を打ち込んできました。こちら側には、山の上に軍がいて、そこへ向けてのものです。


©柴田大輔 2/5/2014: 戦闘の後、人権団体へ報告するホセさん)


一つが私の家から100mくらいのところに落ちました。家が大きく揺れました。その後、銃を発砲してきた。これが長かった。2時間半続いた。それから銃声が単発になって、完全に収まったのは3時間後だったでしょうか。家に孫娘がいてお絵かきをしていたんだけど、びっくりしていました。
ここは危ないからと10人でこの場を離れました。私の家族は5人。もう5人は朝からこの先の畑にチロ(この地域の主食の小ぶりのバナナ)を採りに行っていた家族で、お母さんと4人の小さな子どもたち。銃弾が上空を行き交っていた。状況が落ち着くのを待って、(避難所である)学校に向かった。この家族は、逃げるのに邪魔になるからと、うちに折角採ってきた沢山のチロをおいていきました。(訳者注:ホセさんの家族は学校に向かい、チロを採ってきた家族は自宅へ帰った。)


(CHIRO・地元のミニバナナ)
いつまで学校にいるかはわからない。もうこの状況が始まって20日が経ちます。(訳者注:地域に軍が入りゲリラとの間に緊張が高まってから)
昨日(2月4日)も、自宅近くで5回の爆発があった。これまでに死傷者が出ているのかはわからない。もし軍に死傷者が出ていたらヘリコプターが来るだろう。でもそれはまだ来ていない。(訳者注:住民に死傷者は出ていない。)これからどうなるかわからない。


2014年2月5日

居留区への爆撃(その1)

文:柴田大輔

写真: ホセ・チンガル&柴田大輔


コロンビア南部ナリーニョ県のエクアドルと国境を接するリカウルテ市に
アワ民族コミュニティーの1つマグイがあります。

©柴田大輔 2/5/2014:白旗を揚げる人々)

この地域は1990年代後半から次第に激化する紛争に巻き込まれていきました。
私はエクアドルで紛争避難民として暮らすマグイの人たちに出会い
その縁がきっかけで、昨年よりこの地域に出入りすることになりました。

紛争の中で沢山の人が傷つき、亡くなったと聞いています。
実際にこの地に立ち、その豊かな緑と水に心を奪われました。
朝日に照らされた山々が美しく輝いていました。
ある避難民の老人が、もう戻れないかもしれない故郷マグイを思い出しながら
「あんなに豊かな土地はない。なんでも(作物が)育ったんだ。」と
話したのを思い出しました。



©ホセ・チンガル:マグイコミュニティの山々)

紛争は、静けさと激しさを繰り返しながら終わることなく続いています。
今年に入り、ゲリラと軍による衝突がマグイとその周辺で激しくなっています。



©ホセ・チンガル 2/4/2014:マグイの上空を旋回する軍のヘリ)

人々は今、何を思いどう生きているのか。

マグイの学校 Institucion educativa INKAL AWAを拠点に、
この地に生きる人々の声をシネミンガがアワ民族コミュニティー・マグイと
協働作業(ミンガ)で発信していきます。
その第一歩としてこのブログを始めます。


©柴田大輔 2/5/2014 学校へ一時避難するホセさんと家族)


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柴田大輔:茨城県出身の写真家。この恊働企画の主要メンバー。2007年よりメキシコやコロンビアの先住民族コミュニティを訪問し続けている。